何か楽しい事をしよう
いつからか自分の夢になっていた、ゲストハウスの経営をホーチミンですることになった。
ベトナムに来る前、当時勤めていた会社を辞めようと思い始めた時あたりから、ずっと考えていた。
「何か楽しい事をしよう」と。
人生とは楽しむためにあるのだと。
パッと思いついたのが、東南アジアでの起業。
なぜか。
勝手なイメージだが、南国の人が醸し出す独特の雰囲気、ナンクルナイサという超然とした感覚にすごく憧れがあった。
僕はずっと、弱くてズルくて臆病な自分を変えたかったのだ。
これから発展していくであろう土地で、前向きに自分らしく楽しく生きたい。
人生を振り返ると、周りの人からどう見えているかをとても気にして生きていた。
いや、もっと言うと社会の中で「価値がある」と思われるにはどうすれば良いかを気にしていた。
自分が真っ当である事を他人から承認されていないと不安だった。
(この考え方に至る原因は幼少期の環境に起因していると最近気付いたのだが)
しかし、どこまでいってもその不安が払拭されることはなかった。
承認する側の基準は人それぞれの価値観、環境や状況によって異なっていた。
僕は色々と工夫した。が、その度に挫折し、恋人や友人を失ったり、自ら距離をおいたりしていた。
僕は他人のために必要以上にエネルギーを浪費していた。
僕は自分の生き方を変えなくてはならないと思い始めていた。
カナダで調子にのる
キッカケになったのは、カナダでの就労だった。
当時26歳で、システムエンジニアとして公共系のシステムを開発していたが、なんとなくこのままでは埋もれるなと感じた。
このままでは「普通」になってしまう。
その当時、すでに中国オフショアが始まっていて、設計済みのプログラムのコーディングなどは委託され始めていた。
プログラマの仕事はいずれ安い労働力に置き換わるのは目に見えていた。
今すぐ海外に行くべきだ。
海外で英語を学び、国際的な競争に晒されても生きていけるようになるのだ。
僕は、会社を辞めてカナダに飛んだ。
(実際のところは、日本の特殊性もあるのだろうが、いまだにオフショアは当たり前と言える状態にはなっていないので、当時考えていたような状況にはなっていないのだが。)
僕はカナダでの目標を初めから、英語環境での数年の就労経験と位置付けて、割と厳しく律していた。
周りの日本人が甘っちょろく見えた。
俺はよくやっている。
俺は違うのだ。
僕の中での歪んだ自尊心がくすぶり始めていた。
結果として、ワーホリなどではなく、現地でITエンジニアの仕事を自力で勝ち取って2年ほど滞在した。
北米では日本人が企業に現地採用されるのは珍しい。ある意味、駐在より難しいと思われる。
現地採用といえば日系のレストランが定番であった。
そのような中で自分のようなキャリアを辿っていた日本人はなかなかにおらず、周りの人からも「一目置かれた」ように感じていた。
僕は自分自身を正確に評価する事を忘れて、他人から眩しく見えているであろう「ユニークな生き方」を想像しそれに陶酔していた。
実際はとても辛かった。
英語力のなさ、経験のなさ、価値観の相違、食事、気候(マイナス30度)、それらが相まって、プレッシャーとストレスは相当だった。
僕はそれを一切見せずに、周りに対しては前向きな自分を演じ続けていた。
(実際はバレバレだったのかもしれないが)
そういった歪んだ状況は長く続かないものだ。
僕はたった1ヶ月の間に、プライベートの問題、アパートからの立ち退き、そしてビザの問題、という3つの大きな問題を抱えることになる。
詳細はここでは控えるが、かなり面倒な状況を1ヶ月で全て整理し、一旦帰国することになった。
空気が読めない日本人
帰国した僕は、もう一度自分のキャリアを考え直してみた。28歳になっていた。
ビザを取り直しカナダでもう一度働くか、日本で就職するか。
時はリーマンショック直前の好状況、英語力を兼ね備えたITエンジニアと言う立ち位置で、僕の日本での市場評価は予想より高かった。
いくつかの外資系企業にコンタクトを取り、良い内容のオファーをもらった。
この時点でカナダの会社には戻らない事を伝え、僕は東証1部上場企業(もっと言うと日経225銘柄)という看板に飛びついた。
日本に戻ってすぐの頃の僕は、海外帰り特有のテンションが上がった状態で過ごしていた。やたら知らない人とコミュニケーションを取りたがるのだ。
すれ違う人と挨拶をかわす。
信号待ちで隣の人に天気の話をする。
コンビニの店員に「おはようございます!」と言う。
外国人を見つけると話したくてウズウズする。
そんなこんなも、数週間で挫折し、すぐ元どおりの日本人に戻るのである。
挙げ句の果てに日本人にケチをつけるのだ。
日本人は冷たい。
目が死んでいる。
カナダではああだった、こうだった。
実際、カナダにいた2年間の経験を経て、僕は前よりも突っ込んだコミュニケーションをするようになっていた。
本音を言うことが大事であると考えるようになった。
英語という言語は、共通のバックグラウンドや、コモンセンスがない関係でもコミュニケーションに支障が無いように発展してきているように感じる。
そのような関係では、思っている事を詳細にダイレクトに伝える必要がある。
逆に日本でのコミュニケーションは、コモンセンスの理解が大事である。
空気読めよ。というやつである。
僕は空気が読めなくなってきていた。
というよりは、空気は感じるが、それに従うのが嫌になっていた。
(英語では結論を先に述べて、そのあとに相手の理解度と反応を見ながら詳細を追加(修飾)していくような文法構造になっている。日本語は逆で、修飾節が先にきて、結論は言うまでもなく理解するのがスマートとされる。)
僕の中での変化は、日本の社会で、「価値がある」と他人から思われることと矛盾し始めていた。
数年ぶりの日本の会社。日本人に囲まれて仕事をする。
新たなストレスとの戦いだった。
会社は管理職層による社内政治、派閥争いにエネルギーを注いでいた。
現場はその空気感を絶妙に判断し、派閥間のコミュニケーションでは細心の注意が必要であった。
僕はその非合理的な活動に嫌気がさしていた。
一時、会社を変えたいなどと無茶な構想を持った時期があったが、そういった空気感は見逃されない。
社内政治家のアンテナは恐ろしく敏感なのだ。
僕はそれでも6年間籍を置いて、最終的に心が折れた。
毎朝吐きそうになりながら、JR中央線の満員電車に乗っていた。
何のために働いてるのか。休日にリラックスするために働くのか。
お金とは何だ。お金で何が欲しいのか。
僕が欲しいものは何なのか。
そして、僕は最終的にこの言葉にたどり着く。
「何か楽しいことをしよう」
続く。。。 (時間あれば。。)